心の穴

 

2022年4月19日、母は、ゆっくりとこの世を去りました。

 

享年82歳

あっけなくこの世を去りました。

 

父が亡くなって、49年、長いようで短い人生でした。

 

いつもお金に苦労した様に思います。

 

そんな生活の中でも優しい母でした。

 

日々の生活の中に母は、まだ生きています。

普段の道を見ても、食事が乗った皿を見ても、庭の雑草さえも、この道を孫と一緒に歩き、ご飯を良く食べ、草を引き、何を見ても愛おしく思い出されます。

 

今も携帯の写メを撮った書類を探す中に母の入院中の悲しそうな写メを見て今の気持ちを書かずにはいられなくなくなりました。

 

人間は愚かな生き物です。

そこにある幸せに向き合わずにただ当たり前の事としてやり過ごして生活してしまいます。

 

こんなにも存在が大きく愛しいものとは思いもよりませんでした。

 

今、2年ぶりに、小さな姿となり戻って来た姿を見て、もう少しだけ孫達と一緒に歩き、長男の高校生になったつた姿も、長女のセーラー服姿も、次男に買ってくれたランドセルを背負った姿も、見ること無く逝った悔しさを思うと涙が止まらなくなるのです。

 

これから残された家族で、頑張って行くしかありませんが、この事故を引き起こした医者の皆さん、この事故を事故を引き起こした経営者の方々、人の人生の重さををもっと理解してほしいのです。

 

家族や親族が受けた心の傷は、消える事はありません。

 

医者から受けた心無い言葉や行動は、一生消える事はありません。

 

どんなに謝れても、賠償金を貰っても、戻ることは無いのです。

 

聖職と言われた職業だった時代はもう過去のものなのでしょうか?

 

この悔しさや悲しみを、背に生きていきます。

 

難病を一つでも治せる治療法が確立して、不幸の連鎖を断ち切れる世の中になる事を心から願ってやみません。

 

命が消える時

 

2022年4月19日火曜日 晴れ

朝からアポイントの取れているお客さんのところに訪問するべく、いつもの朝の風景...

 

嫁さんは三人の子供(小中高)を送り出し、まさに家を出る寸前に携帯電話が鳴り病院から...

 

あれこれと手を尽くしておりますが血圧が下がり、70代から上がらず、限界かと思われます。

 

とのこと.....

 

病院は、歩いて15分ほど(息子や娘/孫たち)学校から戻るのを嫁さんは待つとことで、居ても立っても居られず、歩いて病院へ向かいました。

 

身体に力が入らず、ふらふらと歩きながら母との思い出l(辛いことばかり)が思い出され、涙がこぼれ出るのです。

 

母は、32歳で夫(父)を亡くしシングルマザー(その当時は、そんなかっこいい言い方はしなかった))となり、私達の為に殴られても、熱があっても働き詰めに働いて来た....

 

アパート暮らしの、三人家族の母子家庭には、

風当たりの強い時代を女手一つで育ててくれた、かけがえの無い母の命が、地球上から消えて亡くなろうとしている....

 

もう二度と笑わない、触れることも、声を聞くことも無い、ゆっくり、ゆっくりと冷たくなっていく...

 

お母さんへ(おかんへ)

自分を我慢し、辛い時も、痛い時も、寒い時も、暑い時も、

私達の為に頑張り続けてくれた...

何も親孝行らしことは出来なかったけど...
あなたの優しさ、

あなたの強さ

ちゃんと私達、孫たちに受け継がれています

次に生まれてくる時もあなたの子供になりたいです

人よりも波瀾万丈の人生だったけど...
本当にありがとう...
心から最高の感謝を送ります....
安らかに...もう我慢しなくていいから..
さようなら...さようなら...さようなら...
あなたの子でよかった...

笹倉睦子 享年82歳 兵庫県生まれ

絵が好きで、素敵な母でした...
ありがとう...

智明

 

2022年4月19日18時24分 

82年の人生に幕を下ろしました。

 

母の人生に関わっていただいた方々に感謝を申し上げます。

 

 

急変

 

皆さんこんにちは、母が、病床についてから、はや1年10ヶ月になりました。

 

病状は良くなることはありません(脳出血で運動麻痺、失語、胃瘻)が、自発呼吸と目が開き(意志の疎通は出来ません)安定した状態が続いておりました。

 

コロナが厳しくなり、短時間の面会、または面会出来なくなり1年近く、マッサージや何もしてあげられなくなり、少し目に現れていた意志(調子が良さそうな時は、穏やかに目を開き健常者の様でした)を感じました。

 

安定した状態が続いていたのですが、2022年4月5日病院からの連絡で、血糖が1000以上となり心拍数が120と異常な状態...インシュリンの投与をするもと少し安定したのですが、酸素フォワードが下がり肺炎の状態となりました。

 

ICU に移り、人工呼吸器に繋がれて、次は血圧低下、抗生物質と降圧剤、敗血症を引き起こして貧血のため、輸血と血液浄化の治療を受けております。

 

もう、目を開くこともなく、苦しそうに熱を出して手足は冷たく...

 

もう、してあげられることもありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イカの姿焼き...母との思い出

母が、病院から戻らなくなってはや1年2ヶ月が経とうとしている...

近況は、変わらず、目は空いているが虚空を眺めている様子で、意思の疎通は無いまま...

 

病院側は、早くこの面倒から逃げたい方針らしく、適当な提示をしてくる...

 

家庭は普通に生活している様子だけど、孫三人がコロナ禍の為、あまり出かけることもなく、お見舞いもろくに行けず、家でYouTubeなどを見て過ごしているのですが、ちょくちょく母の私が知らないエピソードを耳にすることがあり昔を思い出すのです。

 

末っ子の颯祐(小学2年)が、YouTubeに、じっくりコトコトコーンポタージュが出てきたのを見て「バァーバが幼稚園の帰り道よく喉が乾いたら飲んでいた」と言う。

次男の幼稚園のお迎えの帰りのことだったらしい。

 

私が小学生の頃、クリーニング店に勤めていた母は、夜に店を閉めた後に仕上がった衣類を歩いて配達に行くことがあった。

その外周りがなぜあったのかは、よくは知らないが、必ず私を連れて行ってくれたのを思い出しました。

 

その帰り道に、餃子の王将がありよく立ち寄って餃子を好きなだけ食べさせてくれるのです。

その王将には、10人前を何分かは忘れましたが、食べ切ると無料だった事を覚えています。

子供心に、10人前....余裕やなぁ〜と思っていたのですが、いつも何人前を食べたのかは思い出せません。

 

それから、5年が経ち私が中学生の頃、すでに明石から豊中に引越して、母は同じくクリーニング工場に勤めて私たち姉と二人を育ててくれました。

 

前にも書きました様に、かなりの苦労をしながら、慎ましい生活をしていたのを覚えています。

しかしながらその時代は、そんな家庭が同級生や周りにも、ちらほらあったように思います。

 

母は、ひと月かふた月に一度くらい外食に連れて行ってくれました。

今は贅沢な時代です。

焼肉やしゃぶしゃぶ、イタリアンなどなんでもありますが、その当時、ファミリーレストランが全盛の時代です。

三人家族の母子家庭には、敷居が高かった様に感じていたのは私だけだったのでしょうか?

駅前の和食レストランさとに行き「好きなものを...」と言う母に何か遠慮して注文をしていた記憶が鮮明に残っています。

母と姉の三人で、何を話したのか話の記憶は一切ありません。

何か引け目の様なものを感じた記憶だけです。

鮮明に覚えているのは、イカの姿焼きを頼み、いつも三人で食べていたのを覚えています。

 

 

あの頃、母は生活が一番、苦しかったはず、なのに外食に行こうと連れ出してくれるその真意は今はもうわかりません。

 

一番末っ子との幼稚園の帰り道、背は小さくなり、腰が曲がり、ゆっくりと孫に引っ張られる様に歩きながら、帰り道のホームセンターのフードコーナーで、私たちにしてくれた様に孫とベンチに座り、コーンポタージュを飲む姿が目に浮かぶ様で...涙が出てきました。

 

生活に追われて、元気なうちに、親孝行の一つもしてやれなかった事を悔やんでも悔やみきれない気持ちでいっぱいです。

 

しかし、遺伝子とは凄いもので、末っ子が鮮明に母との思い出を覚えている様で、そのささやかな思い出を、大人になった末っ子が思い出して、また人にこの感覚を与えていけたなら、どこかに母の優しさを残してくれた様に思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

命の期限

永らく、ご無沙汰いたしておりました。

 

私の母が医療過誤で寝たきり(植物状態)になって、9ヶ月目となりました。

 

・母の寝たきり

・自身の目の症状

・コロナ禍

・自営業の経営悪化

 

と四面楚歌に見舞われ、心身共に疲れ果て糖尿病を患う始末です(汗)

糖尿病は、今までの無理ももちろん関係しているのですが、最後の最後は、やはりストレスなのでしょう。

 

母が危篤となって4日目の深夜に病院から連絡があった時、そんなに危ない状態とは病院から知らされていなかったので、病院からの呼び出しで急を告げる内容に血の気が引く、毛が逆立つ様な初めての感覚に襲われて、連絡があるまでは、うつらうつらと眠気に襲われていましたが、眠気は吹っ飛び、足に力が入らず、手が冷たくなるのを感じました。

 

それ以来、夜に目を覚ます事のなかった私も今では、2〜3度は目を覚ます様になりその度にトイレに行くようになりました。

 

それまでは、糖尿病のグリコヘモグロビンの数値は、11.9だったのが、7点台くらいに下がっていたのですが、下げ止まり、また徐々に上がり、現在は9点台にまで上がり、その度に薬を増やされ、肩首の凝りと痛み、手足の冷え、動悸に苛まれております。

 

先月の検査では、CEA(腫瘍マーカー)まで検出されて、養生しておりますが、こうなってくると、体質的なものまで変わってくるのでしょう、それまでには感じた事の無い症状(肩凝りも脇や上腕も違和感)を感じる様に思います。

医者に言われたから...取り越し苦労なのだと思いたいのですが...やはり意識してしまいます。

 

最悪の事態を...

 

ここまで来ると、楽天家で強気だった性格も弱気になるます。

 

コロナ禍を理由に母の見舞いは最低限にし、1日に何度となく風呂で汗をかいておりますが

グリコヘモグロビンは8点台になりましたが、CEAの方は6.4となかなか下がりません。

 

まだ、それ以降の検査はしていないのですが、検査をして病気を確定して、キツい薬品を体に入れたりするのは本意では無いのと、この状態に拍車をかけたく無い気持ちからの逃げなのでしょう。

 

検査を進める医者に、様子を見ます。と引っ張っています。

 

タイトルにごたいそうな「命の...」などと書いて笑われるかと思いますが、四面楚歌の人間には悲観的になっている事をお許しください。

 

しょうがないので、ウォーキングでも始めます。

 

何かいい方法でも有れば、教えていただけると幸いです。

転院勧告

10月14日に病院から、これ以上の回復が望め無いので、転院されてはいかがかと、申し出があった。

 

それは、被害者家族からすると、治療も面倒をも放棄した様に聞こえた。

 

金銭的な話も交渉も無く...

 

誠意なんて感じられない、人間としても疑いを感じる。

 

本当に精一杯の対応なのだろうか?

 

心臓を手術して見ましたけど、他でミスして、廃人にしてしまいましたが、何も出来ないので、引き取って下さい。と聞こえもする。

 

これが、国が定めた医療のあり方なのだろうか?

 

去年の10月にも、輸血事故を2件も起こし、一人亡くなっている。

 

家庭は、火が消えた様に影を感じ薄暗く感じる。

 

家族一人の存在(年老いた母)がこんなに生活に影を落とす事になるのだろうか。

 

家族皆が、心のどこかに居る母のことを心配し、回復を願い、元気だった頃の笑顔を心の片隅に置いて生活しているのだろう。

 

しかし、残された者は、生活していかなければいけない。

 

母は今、病院のベッドで発熱を続け、辛そうな表情で言葉も無く眠り続けて居る。

 

ありがとう、ごめんなさい、ありがとう....

不思議な力

 

これまでに私の生い立ちを綴って参りましたが、目に見えない力を信じた事はありませんでした。

ですから、特別信仰も無く、その時その時を生きてきたのですが、高校を卒業してすぐに立ち仕事と言う事もあり(それまでの無茶が祟ったのか)椎間板ヘルニアになりました。

 

椎間板ヘルニアを体験した事の有る方はお分かりかと思いますが、足(向こう脛の外側)とお尻(坐骨神経)が痺れ、疼くのです。

 

その痛みは、じっと座っていても寝ていても起こるのですが、発作の様に襲って来ます。

痛みが起こると、それが過ぎ去るまでじっと耐えるしかありません。

 

病院に行っても、機械で腰を引っ張り、電子治療器(筋肉に電気を通して緊張をほぐす)の治療でほとんど効果がありません。

あとは、湿布薬と痛み止めですが、また季節の変わり目や無理が溜まると発症し、次の治療はブロック注射で、腰に太い注射を打たれ一瞬、下半身が痺れ1時間ほど寝て終わりです。

 

腰と脚に違和感が残りますが、痛みは7割方なくなります。

でも、これも時間稼ぎに過ぎず、同じように時期が来ると同じようにやって来ます。

 

あとは、手術しかないのです。

しかし、叔父が昔、椎間板ヘルニアになり、手術を受けたところ、背中の中心あたりから、尾骶骨まで切って、手術に8時間もかかり途中で麻酔も切れて酷い目にあい、結局一生足を引きずり、寒さや疲れる度に痛みを訴えていましたから、とてもそんな手術は受けたくないと思っていました。

 

しかしながら、事あるごとに症状が出る...

 

そんなある日、親友にヘルニアの事を話したところ、「良い先生がいる!」と言って「自分の野球肩を一発で治した、と言うのです。

 

しかし、良く聞いてみると、その先生はお弁当屋さんでこだわって大阪北部の田舎に野菜を仕入れに行った時に農家のお婆さんが野菜の入った籠を背負って野菜を売りに来るのですが、殆どのお年寄りが、足腰の痛みに悩んでいたところを、昔取った杵柄(空手の有段者)で変わった整体術で施術をして人気があったことがキッカケで、お弁当屋さんは息子さんに譲って、資格を取って健康院を開業されました。

 

開業される前に紹介されて見てもらいました。

 

1時間少しの施術でしたが、摩ったり、刺激して,ストレッチする様な感じでしたが、施術台から降りてビックリ!!足も腰も痛みも痺れも無くなって快調そのものなんです。

 

施術を受けた場所が2階で、階段を手すりを持って、やっとの思いで上がったのですが、帰りは、トントントンと足が進んで、弾む様に帰りました。

 

それから、開業されてから、腰の調子が怪しくなると、その先生にかかりヘルニアを凌いで来ました。

 

先生曰く、身体の働きと反射を利用して良くしているだけだから、本当に身体が悪い人は治せません!との事でした。

 

それと、真剣に人の身体を触ると、異常な疲れが溜まり「長生きできない!」とおしゃって居られたのですが、真剣に施術をされ続けた先生は、昨年にお亡くなりになられました。

ご冥福をお祈りします。

 

それを考えると、

自分の身体は自分でしか

結果、治せないのだろう

もし、命を削って身体の不具合をとってくれているとしたら、その対価は幾ら支払えば、合うのだろう?

 

今、私は先生に教えて頂いた方法と普段の食事と運動とトレーニングとストレッチ、後、経絡(ツボ)でほぼヘルニアは出なくなりました。

 

でも、疲れとストレスでたまにで始めると、即半身浴→ストレッチ→ツボで、悪化する事はなくなりました。

 

それには、まず自分の体調の変化に気がつく敏感さと、気がつく行動がまず大事なのではないでしょうか?

 

例えば、じっとして居ては分からない凝りや痛みもストレッチをするとわかりますし、ランニングやウォーキングすれば息切れや動悸や違和感で異常や不調は分かります。

 

しかし、これがわかるのは本人だけなのです。

 

また、機会があれば神経反射のツボの話しでもしたいと思います。