突然の母子家庭
当時、私達家族は、滋賀県草津市に住んで、父が電気設備の会社を営んでいました。
父は、兵庫県神崎郡の出身で(とんでもない田舎)稼業が林業と農家でした。
聞いた話しでは、稼業を継ぐのが嫌で実家を飛び出して自力で勉強して電気関係の資格などを取り、大手電気メーカーに勤めた後に独立した様です。
父は、高度経済成長期に起業して、仕事も順調だった様で、月の売上を締めた頃(月末)から家には帰らず遊び歩いていた様です。
私が4歳の誕生日を迎えた4日後の12月16日に異変が起こりました。
その日が日曜日だったらしく、私の誕生日会をする予定で、私は朝から大騒ぎしていた様で、草津市の駅前に唯一ある百貨店に連れて行ってもらう約束をしていました。
ところが、父が仕事があるから...と言って出掛けてしまったのです。
百貨店に行く約束を守ってもらう為に、ごねて「早く帰ってくるから!」と父に更に約束させて待つ事になった様です。
しかし、父は、帰って来ませんでした!
夕方に暗くなって待ちくたびれ、姉と部屋中を走り回って遊んでいました。その時に黒電話が、「ジリリリン」と鳴り母が電話に出て少しすると、大きな声で「えぇー!!」と言う声がその場の空気を凍らせた様に時間が止まった様な感覚を覚えています。
我に帰った母が、私達に上着を着させ、タクシーを呼び私達をタクシーに押し込み、真っ暗な(当時の草津市は、田んぼだらけの凄い田舎)道を長い間タクシーで走った様な記憶がありました。
着いたのが、どこかの総合病院でした。
父と一緒に仕事に出かけた社員さんが、取り乱した様に母へ「すみません!すみません!」と謝り病院の中に案内された様に思います。
確か、おぼろげながらの記憶ですが、処置室の様なところで、処置台の様なところに父らしき人間に布がかけてあり、台の横から手が出ていたのを覚えています。
母は、周りの人に促されながら、めくった布の顔の部分を覗き込んで、その場に崩れて落ちて嗚咽を上げて泣きました。
真横にいた私は、ただならぬ空気に沈黙していたのですが、処置台から出ている見慣れた手をつかんでいました。
まだ暖かく感じたのを覚えていますが、その時に母を慰めようとしたのか、「手が暖かいから大丈夫...」と必死に母に言っていた様です。
何が起こったのか?
そくには理解できませんでしたが、もの心ついてから聞いた話しでは、電気工事が仕事だった父は、普段自分でしない(私と同じ目が悪い/網膜色素変性症)作業を急いでいたのかしていたのです。
ビルのエレベーター配線だったのですが、ヘレベーターホール(エレベーターの上がりません下がりする穴)に入り作業していた様で、4階の部分から地下1階まで転落したのです。
救急隊を呼んで、助け出した時には、おそらく即死の様な物で、頭を打ってイビキの様な呼吸音を出していたそうです。
その出来事から私達は、3人家族となって今の人生となって行ったのです。
残された母は必死になって私達を育ててくれたかけがいの無い母です。
その母の余生がこんな残酷な出来事で、この先どうしてあげられるのか?
と考えれば考える程に苦悩の日々なのです。
皆さまも因(自分の因=親)を大切に生活すれば幸せになれる法則に従って、大切になさって下さい。
では、また...