イカの姿焼き...母との思い出

母が、病院から戻らなくなってはや1年2ヶ月が経とうとしている...

近況は、変わらず、目は空いているが虚空を眺めている様子で、意思の疎通は無いまま...

 

病院側は、早くこの面倒から逃げたい方針らしく、適当な提示をしてくる...

 

家庭は普通に生活している様子だけど、孫三人がコロナ禍の為、あまり出かけることもなく、お見舞いもろくに行けず、家でYouTubeなどを見て過ごしているのですが、ちょくちょく母の私が知らないエピソードを耳にすることがあり昔を思い出すのです。

 

末っ子の颯祐(小学2年)が、YouTubeに、じっくりコトコトコーンポタージュが出てきたのを見て「バァーバが幼稚園の帰り道よく喉が乾いたら飲んでいた」と言う。

次男の幼稚園のお迎えの帰りのことだったらしい。

 

私が小学生の頃、クリーニング店に勤めていた母は、夜に店を閉めた後に仕上がった衣類を歩いて配達に行くことがあった。

その外周りがなぜあったのかは、よくは知らないが、必ず私を連れて行ってくれたのを思い出しました。

 

その帰り道に、餃子の王将がありよく立ち寄って餃子を好きなだけ食べさせてくれるのです。

その王将には、10人前を何分かは忘れましたが、食べ切ると無料だった事を覚えています。

子供心に、10人前....余裕やなぁ〜と思っていたのですが、いつも何人前を食べたのかは思い出せません。

 

それから、5年が経ち私が中学生の頃、すでに明石から豊中に引越して、母は同じくクリーニング工場に勤めて私たち姉と二人を育ててくれました。

 

前にも書きました様に、かなりの苦労をしながら、慎ましい生活をしていたのを覚えています。

しかしながらその時代は、そんな家庭が同級生や周りにも、ちらほらあったように思います。

 

母は、ひと月かふた月に一度くらい外食に連れて行ってくれました。

今は贅沢な時代です。

焼肉やしゃぶしゃぶ、イタリアンなどなんでもありますが、その当時、ファミリーレストランが全盛の時代です。

三人家族の母子家庭には、敷居が高かった様に感じていたのは私だけだったのでしょうか?

駅前の和食レストランさとに行き「好きなものを...」と言う母に何か遠慮して注文をしていた記憶が鮮明に残っています。

母と姉の三人で、何を話したのか話の記憶は一切ありません。

何か引け目の様なものを感じた記憶だけです。

鮮明に覚えているのは、イカの姿焼きを頼み、いつも三人で食べていたのを覚えています。

 

 

あの頃、母は生活が一番、苦しかったはず、なのに外食に行こうと連れ出してくれるその真意は今はもうわかりません。

 

一番末っ子との幼稚園の帰り道、背は小さくなり、腰が曲がり、ゆっくりと孫に引っ張られる様に歩きながら、帰り道のホームセンターのフードコーナーで、私たちにしてくれた様に孫とベンチに座り、コーンポタージュを飲む姿が目に浮かぶ様で...涙が出てきました。

 

生活に追われて、元気なうちに、親孝行の一つもしてやれなかった事を悔やんでも悔やみきれない気持ちでいっぱいです。

 

しかし、遺伝子とは凄いもので、末っ子が鮮明に母との思い出を覚えている様で、そのささやかな思い出を、大人になった末っ子が思い出して、また人にこの感覚を与えていけたなら、どこかに母の優しさを残してくれた様に思います。