阪神淡路大震災

 

母が辛そうな表情で、眠る姿、時折にうっすらと開ける目を見ると様々な思い出が蘇ります。

 

苦労話しばかりで恐縮ですが、阪神淡路大震災の時の事を書きたいと思います。

 

その頃、私は、20代半ばで、姉は早くに結婚して母と2人暮らしでした。

 

私は、生活苦が小さい頃から続いて、子供心に贅沢を言えないのをわかっていましたので、中学生の頃は、知り合いから日雇いのアルバイトをしたりして小遣いを稼いでいましたし、高校生になり、新聞配達、居酒屋、喫茶店焼肉屋、引っ越し屋、オフィスクリーニング、などのアルバイトをして生活費と小遣いを稼いでいました。

 

働く事自体は大阪へ引っ越してくる前の事業失敗したクリーニング店で、小学校一年生から手伝いが日課でしたので苦にも思わず思いっきり働きました。

この経験も面白い事が沢山ありましたので、また書きます。

 

働き過ぎた分、学生の本分である学業は疎かになりましたが、一番底辺の仕事も嫌がらずにするので、どこに行っても可愛がってもらえました。

 

そんな環境から社会人になり、数社を経て下請け企業から2部上場の企業へと営業出向して名一杯働いている最中に、あの阪神淡路大震災に被災しました。

 

その頃、出向組の中堅どころとなり、朝昼問わず働きまくって、夜は付き合いに明け暮れる毎日で、布団の中で寝る事はほとんどなかった頃です。

 

忘れもしない1月17日5時46分...その日も深夜に帰宅してコタツで眠りこけていました。

不思議なもので、寸前に目が覚め、縦に三回ほど跳ねる様な振動がして3秒ほど静まり返った後で凄まじい横に揺れ、オンボロの木造アパートがギッシッギッシッと30cmぐらいに感じましたがシーソーの様に揺すられ凄まじい轟音と物が割れる音、物が落ちる音、何が起こったか理解できませんでした。

 

豊中市でしたが、伊丹空港の航路でもありましたので、飛行機が落ちたのかとも思い、自然とオォーと声を上げて、コタツの横にあった食器棚を無意識に押さえていました。

 

どれくらい時間が経ったかわかりませんでしたが、押さえた食器棚以外のタンスは全て倒れ、趣味で飼っていた熱帯魚の水槽が下駄箱ごとドアにもたれかかりドアは開かず、その下の履物には水槽の水が入っていました。

 

倒れたタンスの隙間から上着を適当に引っ張り出して、60リットル水槽の水が2/3残っていましたが、ヒョイと持ち上げ、台所の上に避けてズブズブの靴を履いて隣の公園に避難しました。

当然のように停電していましたので、どこの地震かは、公園に避難してきた方のラジオで、震源は淡路島と知りましたが、生まれてこの方、関西に住んでいましたが、震度3以上で揺れたことが無かったので、全くの無防備でした。

 

どれぐらい公園に居たかは覚えていませんが、何せ一月ですので、凍えたのは覚えています。

そして、余震もマシになって家に戻ると、足の踏み場もない状態で、片付けを始めましたが、さっき持ち上げて台所の上に置いた水槽を持ち上げると、重過ぎて上がりません!火事場のくそ力とはこれのことかと思いながら片付けていると、何時頃だったか覚えていないのですが、電気が復旧して、テレビを付けてビックリしました!?

 

阪神高速道路が横たわっていました。

神戸の市内は、あちこちから火の手が上がり、見慣れた神戸の街では無い様に見えました。

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ハッ!と気付き職場に連絡して指示をもらおうと公衆電話(携帯電話はまだ無かった)に走りましたが、赤電話に長蛇の列で順番が来て電話してみると、繋がらず家の方は叔母が心配して来てくれたので、職場へ車で向かう事にしました。

 

普段は車で40分の所がなんと渋滞で5時間かかりました。

それも、ビルは停電でエレベーターも電話(ビジネスホン)も使えず、主だった取引先に公衆電話から電話して後はする事が片付けのみで帰ってきました。

 

後日にピッチリと閉まらなかったフスマ(下がピッタリ閉まっても上に3cm隙間が開く、家が傾いている)が上下共にピッタリ閉まる様になりました。(笑)

 

フスマわ良かったのですが、テレビの後ろの壁から太陽の光が射しているのに気が付き、外を見てみると、モルタルの壁が表面が全て剥がれ落ちていました...瓦も大量に...半壊でした。

 

その時、母と「お金貯めて、しっかりしたところに引っ越そうなぁ!」と言い合ったのを覚えています。

 

長文失礼しました。