丁稚奉公の悪坊主

前回に私の小学生の頃をお話ししました。

もう少し書きますと...

家族3人の中で、私が幼かったせいもあり叔父が連れて行ける所は一緒に連れて行く事も多かった様です。

 

父の実家はそのうちの一つで、兵庫県神崎郡で幹線道路から更に山奥の山村でその先は行き止まりでした。

お店は一軒も無く、田舎の大きな家に鉄板の“たばこ”と書かれた看板があるだけで、引き戸を開けて「わかばくださーい」と大きな声で言うと「はいはい」とおばあちゃんが持って出て来るといった具合で店では無いのです。

 

何の用事かは知りませんでしたが、月に一回は帰省していましたから、夏休みとなると田舎に預けられて何週間も居ました。

 

する事が無いので納屋を漁ったり、川で釣りをしたり山に小さな池があり、そこに腹の真っ赤なイモリが大量に居ました。

それは、そこ以外では見た事のない生き物で、バケツを持って行き大量に捕まえて持って帰ると、お爺さんが真っ赤になって怒り、納屋の入り口に大きな板をめくると初めて地下がある事を知りましたが、そこに放り込まれて半日閉じ込められました。

 

聞いた話では防空壕だった様ですが、そんな田舎に爆撃があるはずもなく、一度も使う事なく漬物などを保管することになっていた様です。

お婆さんがお爺さんを説得してそこから助けてくれましたが、お爺さんは蛇や爬虫類が大嫌いだった様です。

そうとは知らず珍しいものには好奇心旺盛だった私はバケツに漁れるだけとって持ち帰ったのです。

他にも石垣に良く蛇が居て尻尾だけが出ていたのを引っ張り出して、頭がこちらを向かない様にクルクルと回してながら持って帰った時もお爺さんに激怒されたのを覚えています。

 

どうもこの頃は、怖い叔父の目の届かないところでは自由奔放が顔を出して大人から見ると悪ガキだったのでしょう。

 

しかし、子供の頃から仕事を手伝っていたせいか?何をしても精一杯に嫌がる事が無かったので、社会人になってからも上司や先輩に可愛いがっていただきましたし、小さい頃からトイレ掃除などをしていたので、自信もありどこでも褒めて頂きました。

 

育ちが育ちですので、好き嫌いも無く?(怒られるのでなんでも食べていたけどラッキョウと小魚は大の苦手)畑から採って食べたり、なっている柿やザクロなど勝手に食べてました。

 

明石市の店に帰ると、朝から従業員さん達のアイスコーヒーを入れて店前の掃除と水撒きをした後に仕事の手伝いが始まります。

 

昼過ぎに手伝いが終わってから遊びです。

遊びは、明石市も結構な田舎ですから池で釣りをしたり山で穴を掘って洞窟を作ったり、野犬を追い回したり、スズメバチの巣を退治したりと大忙しであまり勉強はしませんでした。

 

その分、周りの大人達にも可愛がってもらい、美味しいものをご馳走になったり、喫茶店でミックスジュースをご馳走になったりと私生活は大忙しで、小学校の成績表には、いつも「落ち着きが無く...ムードメーカーで...」と書かれていました。

 

小学生の地域のソフトボールチームにも入っていましたが、前回にも書いた様に目が悪いので、打てば三振、守ればエラーの運動音痴扱いでした。

 

今思えば、沢山の大人と過ごしたせいか、遊びも子供にしては発想が変わっていたのか友達も多く、勝手に大阪の交通博物館(弁天町、今はなくなったかも?)まで出てきて、時間の許す限り大阪環状線で何周も回ったり、パチンコを買ってコウモリを狩したりと友達を飽きさせなかった様です。

 

夏祭りになると、魚屋の同級生のところが店を出すので、手伝って客寄せした事もあります。

今の時代では考えられないですね。

 

叔父は、怖い人でしたがその厳しさ故に今の私が出来たように思います。

その叔父も私が中学1年の夏に事業が立ち行かなくなり、多額の借金を一手に引き受けて返済して、無理が祟ったのか、還暦を過ぎて直ぐに病気で亡くなったそうです。

私達、母と姉と私は逃げる様に大阪へ移り住みました。

 

叔父はこの借金返済等で実家にも迷惑をかけたのか、実家の墓にも入れられず、父方の一番下の叔母の働きで、どこかの寺に永代供養されているそうです。

沢山の方々の助けで今の私が成り立っている事を忘れずに、私が生きているうちに丸く収めないといけない大きな一つです。

 

生きるとは、大変な事ですね..

 

また...