健康で文化的な最低限度の生活
母が意識を無くして、もう48日が経ちました。
母と過ごした半世紀近くにあった出来事が現在の生活水準からするとなかなかに過酷さ有り、喜び有りだったので、未だに何かにつけて思い出して悲しくなってしまいます。
例えば、この暑さ!
尋常では無いですね。約40年前に明石市から大阪に引っ越して来た当時、父も他界してその後に起こした事業に失敗して逃げる様に大阪に叔母を頼って、母と姉と三人で来たのですが、風呂なし二間のアパートを借りて生活が始まりました。
もちろんクーラーなど無く、必要最低限の生活でした。
その頃は、クーラーの無い家もかなりあったと思います。今から思えば、こんなに暑く無かったのだなぁと思います。
母の仕事は、クリーニング屋の工場でした。母は、父が亡くなるまで専業主婦でしたので、事業失敗したのがクリーニング業だったので、その仕事を選んだ様です。
しかし、当時40歳過ぎのおばさんを正社員で雇ってくれるクリーニン会社は無く(下世話な業界)パートで働いてました。
生活は苦しい状態でしたが、母にもプライドが有り、生活保護は嫌い母子年金を受給しながらわた達が18歳になるまで凌ぎ生活した様です。
その頃は、社会も甘くはない時代、小額のローンも通らないで笑われた事も覚えています...
そん中、隙間風の多いアパートでの生活は、冬は寒く、夏は暑いのですが、温暖化なのか?夏の暑さが厳しくなり、クリーニング工場(スチームを使うので、凄まじい暑さ。)に母がバテる様になり、念願だったクーラーを購入したのを思い出しました。
あの頃は、貧乏が身に染みてわかっていたので、その贅沢が少し生活がまともになった様に感じて、涼しさよりもそちらの方が幸せを感じた事を鮮明に覚えています。
そんな、苦労を子供達にさせたく無い一心で頑張って来た母がこんな目に遭わされる理不尽さってなんなんでしょう?
私が結婚する際に念願だった家を購入し、苦労した母を1人にしたく無い気持ちから妻に同居を承諾してもらい15年経ち、孫も三人出来てなんの気ない生活をしていただけなのですが、今日も病院で眠り続けています。
幸せになりたいだけなのに...