親は無くても子は育つ

 

今年の正月からあれよあれよと言う間に夏になってしまいました。

今年は、新型コロナのせいで、寒い時期からワープした様な感じです。

 

まだまだ、コロナは続きそうですが、仕事もまだまだで考えさせられる事が山積みです。

 

まさかの母の植物状態で更に身に染みる程に「いつまでもあると思うな親と金」「親孝行したい時分に親はなし」感じます。

いつでもできる!そのうち!と思っているうちに機会を逃して来た様な...。

 

父を早く亡くした事で、普通の生い立ちではない今となっては貴重な経験をして来ました。

 

父を亡くした1972年(昭和47年)当時はまだまだ高度経済成長期で、私が2歳〜4歳くらいの時に、浅間山荘事件や府中市三億円事件があり騒がしいけど、活気が有る世の中で、当時は滋賀県草津市公団住宅?庭付き二階建て3LDKに住んで家賃4700円だった時代です。

 

大手に勤めていた父が、会社を辞めて独立起業

して数年が経った頃に亡くなりました。

 

かなりの稼ぎがあった様で、月の締めが終わると当時で家に50万入れて、毎晩の様に京都へ飲み歩いていたそうです。

そして、お金が無くなると、家に帰って来て母に渡した50万からお金を抜いてパチンコに興じる...お金が底を尽きて初めて家に真っ直ぐ帰って来て、私達の相手をして休みの日には琵琶湖に釣りに行ったりしていました。

 

でも、専業主婦だった母は、お金に困る事もなく幸せな日々くぉ過ごしていたと思います。

父は親族にはもちろん従業員にご近所にも面倒見がよく家に誰かが遊びにくる事がしょっちゅうでした。

 

それが前ブログで書きました様に、父は他界しました。

その当時は中小企業労災も翌年に発足して、まだ無かったと聞いております。

父が残したのは、貯金だけでした。

私達は、父の実家(兵庫県神崎郡)に半年以上預かってもらい、田舎の小学校に姉は通い私は幼稚園は無いので田舎の家で過ごしました。

姉は、学校では“街の子、街の子”と言われて、馴染めず、いじめに近い生活をしていた様に思います。

村でしたので、各学年にほとクラスしか無くて、数人の中に入れられて周りは親族の様なところに放り込まれたのです。

 

姉は村に馴染めず、半年以上を過ごして親子三人は父の弟で有る叔父のところへ事業を立ち上げる出資者として移住する事になりました。

 

兵庫県明石市でクリーニング店を開業する運びとなりました。

 

その経緯と出来事は後に10年続くのですが、これが地獄の入り口でした。

 

またに続けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

突然の母子家庭

 

当時、私達家族は、滋賀県草津市に住んで、父が電気設備の会社を営んでいました。

父は、兵庫県神崎郡の出身で(とんでもない田舎)稼業が林業と農家でした。

聞いた話しでは、稼業を継ぐのが嫌で実家を飛び出して自力で勉強して電気関係の資格などを取り、大手電気メーカーに勤めた後に独立した様です。

 

父は、高度経済成長期に起業して、仕事も順調だった様で、月の売上を締めた頃(月末)から家には帰らず遊び歩いていた様です。

 

私が4歳の誕生日を迎えた4日後の12月16日に異変が起こりました。

その日が日曜日だったらしく、私の誕生日会をする予定で、私は朝から大騒ぎしていた様で、草津市の駅前に唯一ある百貨店に連れて行ってもらう約束をしていました。

 

ところが、父が仕事があるから...と言って出掛けてしまったのです。

百貨店に行く約束を守ってもらう為に、ごねて「早く帰ってくるから!」と父に更に約束させて待つ事になった様です。

 

しかし、父は、帰って来ませんでした!

夕方に暗くなって待ちくたびれ、姉と部屋中を走り回って遊んでいました。その時に黒電話が、「ジリリリン」と鳴り母が電話に出て少しすると、大きな声で「えぇー!!」と言う声がその場の空気を凍らせた様に時間が止まった様な感覚を覚えています。

 

我に帰った母が、私達に上着を着させ、タクシーを呼び私達をタクシーに押し込み、真っ暗な(当時の草津市は、田んぼだらけの凄い田舎)道を長い間タクシーで走った様な記憶がありました。

 

着いたのが、どこかの総合病院でした。

父と一緒に仕事に出かけた社員さんが、取り乱した様に母へ「すみません!すみません!」と謝り病院の中に案内された様に思います。

 

確か、おぼろげながらの記憶ですが、処置室の様なところで、処置台の様なところに父らしき人間に布がかけてあり、台の横から手が出ていたのを覚えています。

 

母は、周りの人に促されながら、めくった布の顔の部分を覗き込んで、その場に崩れて落ちて嗚咽を上げて泣きました。

 

真横にいた私は、ただならぬ空気に沈黙していたのですが、処置台から出ている見慣れた手をつかんでいました。

まだ暖かく感じたのを覚えていますが、その時に母を慰めようとしたのか、「手が暖かいから大丈夫...」と必死に母に言っていた様です。

 

何が起こったのか?

そくには理解できませんでしたが、もの心ついてから聞いた話しでは、電気工事が仕事だった父は、普段自分でしない(私と同じ目が悪い/網膜色素変性症)作業を急いでいたのかしていたのです。

ビルのエレベーター配線だったのですが、ヘレベーターホール(エレベーターの上がりません下がりする穴)に入り作業していた様で、4階の部分から地下1階まで転落したのです。

 

救急隊を呼んで、助け出した時には、おそらく即死の様な物で、頭を打ってイビキの様な呼吸音を出していたそうです。

 

その出来事から私達は、3人家族となって今の人生となって行ったのです。

 

残された母は必死になって私達を育ててくれたかけがいの無い母です。

その母の余生がこんな残酷な出来事で、この先どうしてあげられるのか?

と考えれば考える程に苦悩の日々なのです。

 

皆さまも因(自分の因=親)を大切に生活すれば幸せになれる法則に従って、大切になさって下さい。

 

では、また...

 

 

 

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災

 

母が辛そうな表情で、眠る姿、時折にうっすらと開ける目を見ると様々な思い出が蘇ります。

 

苦労話しばかりで恐縮ですが、阪神淡路大震災の時の事を書きたいと思います。

 

その頃、私は、20代半ばで、姉は早くに結婚して母と2人暮らしでした。

 

私は、生活苦が小さい頃から続いて、子供心に贅沢を言えないのをわかっていましたので、中学生の頃は、知り合いから日雇いのアルバイトをしたりして小遣いを稼いでいましたし、高校生になり、新聞配達、居酒屋、喫茶店焼肉屋、引っ越し屋、オフィスクリーニング、などのアルバイトをして生活費と小遣いを稼いでいました。

 

働く事自体は大阪へ引っ越してくる前の事業失敗したクリーニング店で、小学校一年生から手伝いが日課でしたので苦にも思わず思いっきり働きました。

この経験も面白い事が沢山ありましたので、また書きます。

 

働き過ぎた分、学生の本分である学業は疎かになりましたが、一番底辺の仕事も嫌がらずにするので、どこに行っても可愛がってもらえました。

 

そんな環境から社会人になり、数社を経て下請け企業から2部上場の企業へと営業出向して名一杯働いている最中に、あの阪神淡路大震災に被災しました。

 

その頃、出向組の中堅どころとなり、朝昼問わず働きまくって、夜は付き合いに明け暮れる毎日で、布団の中で寝る事はほとんどなかった頃です。

 

忘れもしない1月17日5時46分...その日も深夜に帰宅してコタツで眠りこけていました。

不思議なもので、寸前に目が覚め、縦に三回ほど跳ねる様な振動がして3秒ほど静まり返った後で凄まじい横に揺れ、オンボロの木造アパートがギッシッギッシッと30cmぐらいに感じましたがシーソーの様に揺すられ凄まじい轟音と物が割れる音、物が落ちる音、何が起こったか理解できませんでした。

 

豊中市でしたが、伊丹空港の航路でもありましたので、飛行機が落ちたのかとも思い、自然とオォーと声を上げて、コタツの横にあった食器棚を無意識に押さえていました。

 

どれくらい時間が経ったかわかりませんでしたが、押さえた食器棚以外のタンスは全て倒れ、趣味で飼っていた熱帯魚の水槽が下駄箱ごとドアにもたれかかりドアは開かず、その下の履物には水槽の水が入っていました。

 

倒れたタンスの隙間から上着を適当に引っ張り出して、60リットル水槽の水が2/3残っていましたが、ヒョイと持ち上げ、台所の上に避けてズブズブの靴を履いて隣の公園に避難しました。

当然のように停電していましたので、どこの地震かは、公園に避難してきた方のラジオで、震源は淡路島と知りましたが、生まれてこの方、関西に住んでいましたが、震度3以上で揺れたことが無かったので、全くの無防備でした。

 

どれぐらい公園に居たかは覚えていませんが、何せ一月ですので、凍えたのは覚えています。

そして、余震もマシになって家に戻ると、足の踏み場もない状態で、片付けを始めましたが、さっき持ち上げて台所の上に置いた水槽を持ち上げると、重過ぎて上がりません!火事場のくそ力とはこれのことかと思いながら片付けていると、何時頃だったか覚えていないのですが、電気が復旧して、テレビを付けてビックリしました!?

 

阪神高速道路が横たわっていました。

神戸の市内は、あちこちから火の手が上がり、見慣れた神戸の街では無い様に見えました。

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ハッ!と気付き職場に連絡して指示をもらおうと公衆電話(携帯電話はまだ無かった)に走りましたが、赤電話に長蛇の列で順番が来て電話してみると、繋がらず家の方は叔母が心配して来てくれたので、職場へ車で向かう事にしました。

 

普段は車で40分の所がなんと渋滞で5時間かかりました。

それも、ビルは停電でエレベーターも電話(ビジネスホン)も使えず、主だった取引先に公衆電話から電話して後はする事が片付けのみで帰ってきました。

 

後日にピッチリと閉まらなかったフスマ(下がピッタリ閉まっても上に3cm隙間が開く、家が傾いている)が上下共にピッタリ閉まる様になりました。(笑)

 

フスマわ良かったのですが、テレビの後ろの壁から太陽の光が射しているのに気が付き、外を見てみると、モルタルの壁が表面が全て剥がれ落ちていました...瓦も大量に...半壊でした。

 

その時、母と「お金貯めて、しっかりしたところに引っ越そうなぁ!」と言い合ったのを覚えています。

 

長文失礼しました。

 

 

 

 

 

健康で文化的な最低限度の生活

 

母が意識を無くして、もう48日が経ちました。

 

母と過ごした半世紀近くにあった出来事が現在の生活水準からするとなかなかに過酷さ有り、喜び有りだったので、未だに何かにつけて思い出して悲しくなってしまいます。

 

例えば、この暑さ!

尋常では無いですね。約40年前に明石市から大阪に引っ越して来た当時、父も他界してその後に起こした事業に失敗して逃げる様に大阪に叔母を頼って、母と姉と三人で来たのですが、風呂なし二間のアパートを借りて生活が始まりました。

 

もちろんクーラーなど無く、必要最低限の生活でした。

その頃は、クーラーの無い家もかなりあったと思います。今から思えば、こんなに暑く無かったのだなぁと思います。

 

母の仕事は、クリーニング屋の工場でした。母は、父が亡くなるまで専業主婦でしたので、事業失敗したのがクリーニング業だったので、その仕事を選んだ様です。

しかし、当時40歳過ぎのおばさんを正社員で雇ってくれるクリーニン会社は無く(下世話な業界)パートで働いてました。

 

生活は苦しい状態でしたが、母にもプライドが有り、生活保護は嫌い母子年金を受給しながらわた達が18歳になるまで凌ぎ生活した様です。

その頃は、社会も甘くはない時代、小額のローンも通らないで笑われた事も覚えています...

 

そん中、隙間風の多いアパートでの生活は、冬は寒く、夏は暑いのですが、温暖化なのか?夏の暑さが厳しくなり、クリーニング工場(スチームを使うので、凄まじい暑さ。)に母がバテる様になり、念願だったクーラーを購入したのを思い出しました。

 

あの頃は、貧乏が身に染みてわかっていたので、その贅沢が少し生活がまともになった様に感じて、涼しさよりもそちらの方が幸せを感じた事を鮮明に覚えています。

 

そんな、苦労を子供達にさせたく無い一心で頑張って来た母がこんな目に遭わされる理不尽さってなんなんでしょう?

私が結婚する際に念願だった家を購入し、苦労した母を1人にしたく無い気持ちから妻に同居を承諾してもらい15年経ち、孫も三人出来てなんの気ない生活をしていただけなのですが、今日も病院で眠り続けています。

 

幸せになりたいだけなのに...

植物状態


母が手術を受けて、44日が経ちました。

 

相変わらず眠り続け、たまに数秒くらいは目を開ける様になりましたが、目の焦点が合っていない感じです。

 

見えているのか、見えないのか?

声も聞こえているのか聞こえ無いのか?

意識表示も無く、手足もダラリと脱力した感じです。

 

ツボを押してマッサージをすると痛いのか痛そうな表情をします...それだけです(悲)

 

今日、午前中に時間が空いたので、日課になったマッサージをしに行くと、リハビリの理学療法士さんが、ベットから車椅子に移して「散歩」に行くとの事で、同行しました。

 

車椅子の上で腕をダラリと前に垂らし、頭まで背もたれが有り、頭は背もたれにべったりくっ付いたまま、目も開けず、看護師さんと理学療法士さんが、名前を呼び「〇〇さん!外ですよ〜」と大声で母に声を掛けてくれていました。

 

この病院には、庭や公園らしいものは一つも無いので、入り口のエントランスへ出る事になりました。

そこは、病院の無料シャトルバス乗り口!お年寄りがベンチにズラ〜と座り、うちの母を凝視しまくるのです!!

本人は、知ってか知らずか、眠り続けています。

 

同年代かそれ以上かと思えるギャラリー達に私は心の中で、「あななた達もこんな病院に掛かってたら、恐ろしい目に合うデェ!」と思ってしまいました。

 

その後で、恥ずかしがり屋だった母を思うと涙が溢れそうになりました。

意を決して、手術する事を決意して自分の足で来院したのが、5月29日でした。

それが今では...やはり諦めきれません。

 

また書きます。

医療過誤...怒り

母が手術を受けて意識不明になって39日が経ちました。

 

最近では、目を開ける事も少なく、あいかわらずの植物状態なのです。

 

ICUに約1ヶ月いたのですが、HCU

(ハイケア...)に移されて、主治医は転勤、看護師は入れ替わり立ち替わりで、聞いた話しでは、病院内で噂になるのでミスのあった医者は大体が移動になる様で、患者を見ているのでは無く自分達の都合ばかりで、看護師レベルには容体や細かな看護内容も伝わっていないのでしょう。

看護もよくしてくれる人とガサツな感じの人、業務的な人と様々で、不安を覚えます。

 

この病院は有名な病院で評判は良く無いんです。そんな事も知らず、母をこんな病院で手術させてしまった事が悔やまれます。

 

出来てから6年しか経っておらず、設備は最新でその辺の口コミはいいのですが、事故が多発している様で、医療関係者の評判はとても悪い様です。

 

設備がよくても、統制が取れていなければ危険ですよね!

病院中にこんなポップが貼ってあり、何も知らなかった私は、素直でクリーンな病院と思っていましたが、今までの言い訳みたいに、今は見えます。

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皆さんも病院選びは、慎重にしてください。それもネットの口コミはダメですね(汗)

その業界の関係者の本音が堅いですね。

 

毎日、病院へ行く度に、母の回復と病院への怒りがこみ上げてきます。

鬱になりそうです...泣

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医療過誤の代償と願い

私は、9年目の自営業を営んでおりますが、新型コロナの影響で仕事はほとんど出来ず、やっと視力が少し回復して束の間、仕事を再開に向けて再出発した矢先に医療ミスによって母が植物状態となり、見舞ってやりたい気持ちと仕事の遅れに焦っております。

 

弁護士と会い、つくづく思う事は何でも相性が大切やなぁ〜。と言う事です。

最初に紹介で会った方は、何か物足りなくてこちらの想いが伝わっていない様な違和感があり、医療過誤は交通事故と同じ内容で保証交渉となります。との事で、何やら物損事故の処理的な感じでした。(汗)

 

本当の気持ちは、弁膜症はそのままでいいから「母を返してほしい!」が本音だけど、そんな無理を言っても、無理なものは無理で、もし奇跡的に回復したとしても、どんな障害が出るか?と不安は尽きません。

 

歳も高齢なので、「このまま」とも考えられるし、どうしていいかさえわからず、ネット検索していると「医療過誤被害者 原告の会」と出会い早速にメールしてみました。

数日後に資料が届きました。

 

資料には、聞いたことない様な言葉が並び困惑...(汗)

しかし、これを乗り越えなければならないと言う気持ちで勉強しております。

 

これから示談交渉やら、弁護士探しと難題ばかりです。

 

最近では、母の面会で叔母と一緒に病院へ向かうと少し気が楽で、母のマッサージをしながら昔話などしていました。すると、母が目を瞑jつたままなのですが、叔母が「あらっ!?姉ちゃん笑ってるわぁ!」とビックリした顔をしたので、私も母の顔を覗き込むと、なんとも楽しそうな笑顔をしました。

どんな夢を見ているのでしょう?

 

少し希望が持てました。