昨日、泣いた

 

昨日、母が泣きました。

 

 

それは、髪をクシャクシャにし、目の周りを目やにだらけにした苦しそうな表情で、体をグッタリとしたまま...少し空いた左目に涙をいっぱいにためて...

 

それは、冷静に見ると、頭が痛かったのか?目に目やにがついて痛かったのか?

 

と考えるところなのかもしれません。

 

しかし、その人の生活や人生を重ね合わせ、それを知り、植物状態からの快方を願う者からすると物理的には捉える事ができません。

 

毎日、頭をマッサージし、お経をあげ、全快を願う家族から見ると、悲しみや悔しさから涙が流れているように思えるのです。

 

 

父を亡くしてからの母は、幼い子供を二人抱えて、必死に働き、必死に耐え、自分を殺して私達のために生きてきたはずです。

 

 

決して母は強い人ではありません。

 

この事故を引き起こした、お医者さん達は、「いつまでもそんな事を考えても仕方がない」とか「医者なんだから失敗もある」と開き直るのかもしれません。

 

 

しかし、やっとその人生の苦しみから解放された人が受ける仕打ちとは、どうしても思えないのです。

 

 

私は、代わってやりたいとすら思いますが、私が死んでは、またこの悲しみや苦しみが繰り返されます。

 

幸せとは、何なんでしょう?

 

人それぞれの幸せがあって、他人には分からないものですけど、三人の家族が六人となり、それは自分が一生懸命に生きてきた証なのです。

 

家族が六人になって、6年、その6年間の幸せで満足出来るものなのでしょうか?

 

まだまだ、自分が元気に生きている限り味わえる幸せを、些細なミスによって他人に壊される事に納得できるものなのでしょうか?

 

私が今までの人生の中で、抱えてきた悔しさやそれによる悲観を子供達に残したくはありません。

 

しかしながら、優しかったお婆ちゃんを忘れてほしくはありません。

 

今も全快を願い、幸せの軌道に戻る努力を続けています...応援してくれる皆さん...ありがとうございます。

 

そして、当たり前の幸せを大切にして暮らしてください。

 

それが、どんなに素晴らしいものかが分かるまで...。

 

 

 

植物状態...経過と告知

 

うちの母が医療過誤植物状態になってから、3ヶ月と10日経ちました。

 

出来る限り見舞いに行き、声を掛けあちこちマッサージをし、照明やテレビをつけて、髪をとかしクリームを塗りと、人が見て寝たきりに見えない努力をしてきました。

 

病院は、個室に移し薬、食事(いろう)、下の世話、週に一度の入浴、リハビリと称した10分ほどの関節を回したりする作業のみで、良くなるとは思えません。

 

しかし、先週に病院から呼び出されて、告げられたことは、「これ以上の回復は望めません。他の施設への転院も考えてみては....」と言うものでした。

 

とうとうサジを投げたのです。

お金や賠償の話は一切ありません...あわよくば...と考えているのでしょうか...腹が立つ!!

 

自分たちが、犯した怠慢が他人の人生とその家族へした苦しみや悲しみを、理解した上での対応、言葉なのでしょうか?

そうだとしたら、人間ではないのでは?...鬼畜

 

人の命を預かり、アドバイスし、国の認可を受けて直接に手を下し、その結果、「ミスしました」と言って許されると思っているのでしょうか?

 

彼ら当事者は、「仕方がない人間にミスはある!」「そう言う仕事だから...」と許されるものだと思っているのでしょうか?

 

人の命を預かる仕事は、いくらでもあります。

 

パイロットだって、バスの運転手だって、一般のドライバーだって人を殺せば、咎められます。

 

彼らの、相手から何も言ってこなければ的な、あの感じ、私以外に咎める者が居ない安堵感...許せない...

 

早く良い弁護士を見つけて、訴状を叩きつけたい!!

 

病状は、8月前半に目の裏に出血の影が新たに見られてから、目を開ける回数と開け方、目の焦点が合わなくなり、眠ることが多くなり、微熱を出すことも多くなりました。

 

これからは、見舞いを続けながら、病院の是非を問う行動を同時にしていかなければなりません。

仕事もコロナの影響で、通常業務以外の雑務だらけ!

 

それでも、生きている者は、目の前の問題と向き合いながらそれを乗り越えていくしかないのです。

 

何があろうと収入が減ろうが、家族が倒れていようが、税金み保険料も全てのものに関係なく、押し寄せて来ます。

 

生きるって辛いものです。

 

今日から俺は!

昔を思うと、大阪のベッドタウンもかなり、のどかで、人もおおらかだったと思う。

 

最近は変質者情報(凶暴系)や、詐欺電話の類がしょっちゅうです。

昔、私達が中学生だった頃、変んな人たちはいましたが害は無かった様に思います。

例えば...

敬礼おじさん、小学校の近くの立ち飲み屋の前にいつも縁に座り込んで、「少年○○に敬礼!」と言いながら敬礼をしてくるおじさんや「勉強してるかぁ!」と声をかけてくるゲームセンターのおじさん、などなど。

 

そんな時代に大阪の豊中市に引っ越してきて、友達もでき(少々悪ガキですが)自分の居場所を作れた頃の話しです。

 

転校して最初にできた友達の誘いに乗って知らない友達の家に遊びに行った事がキッカケとなり、地域のガキ大将(中学1年生ですからこの程度)にしばかれた(殴られた)事から、噂は千里をかけて学年中の噂になってから誘いも増えて友達もどんどん増えました。

 

それも、大阪のそこそこ悪さで有名な地域で不良が特別扱いの無い様な校風(生徒の7〜8割が悪ガキ系)ですから、転校でイジメグループ(真面目な陰険グループ)からも敬遠され、イジメはなくなりました。

 

しかし、そこは友達に左右される年頃なのと、抑制状態で育った事が重なって自由奔放な中学生活が始まりました。

 

私の性格上、付き合いも良くどこにでも顔を出すので、友達もどんどん増えて、悪さもそこそこいたしましたが、虐待を受けて育ったせいもあり、いじめや喧嘩は嫌いでした。

どちらかと言うと、強い者が弱い者をイジメるのが許せない性格なので、そのせいで喧嘩も良くした様に思います。

 

今の子供では、考えられない事も多々...

プールの塀(幅25センチ✖️高さ3メートル)の上だけで、鬼ごっこが流行り塀の形が入り組んでいるところを飛び回っていましたが、流行って2ヶ月くらいで一人落ちて腕を骨折して禁止されました。

 

中庭で、馬跳び...これも怪我人が出て禁止

 

同じく中庭で、蹴鞠の様な事が流行りボールが木に引っかかり(3階超えのオリーブの木)下からボールを取りに木登りが得意そうな小柄な奴が登っていたら、なかなかの悪ガキ(寿司屋の息子)が3階まで上がり校舎3階の窓から「登るより、飛び移った方が早いやんけー」と叫びながら皆が止めるのも聞かずにダイブしてしまいました!!

見事に飛び移るのを失敗して、枝に引っかかりながら、1階の地面にうつ伏せに着地!一瞬時間が止まって、皆で恐る恐る近づくと、本人は言葉も出ず「ウゥー」と唸り声を上げた瞬間!誰かが、「コイツ!死によるでー」と叫んだ瞬間にそこに居た5〜6人は、助けるのも忘れて逃げ出しました。

勿論、職員室に駆け込んで、救急車のお世話になり本人は、腕の複雑骨折と肋骨を数本骨折しただけですみました。

 

夜の水泳大会...

夏の週末や夏休みの夜に数人で学校に忍び込み、プールで泳ぎました。

夜の学校野宿

プールの季節ではなくなると、体育館や校舎の壊れた窓から入り、肝試しや夜通し喋ったりする事は尽きる事が無かったです。

 

私は参加しませんでしたが、夜中にプールの更衣室に忍び込んで、女子更衣室の壁に穴を開けた同級生が居ました。

見つかってこっぴどくお灸を据えられた様ですが、彼も中学2年で転校してきた転校生だったのですが、大阪のとんでもない中学校から転校してきたらしく、転校初日から学ランのズボンの腿横にポケットの付いた(特攻ズボンと言われていた)ものを履き、先輩達(とんでも無く怖い喧嘩好き)にトイレに呼び出され、喧嘩自慢の先輩からボコボコに蹴り回され、先輩の方が疲れて「これぐらいに...」となって「もういいですか?...」と言って平然としていた彼は、私が住んで居たアパートの裏に引っ越してきたのです。

 

中学2年生のキャンプ旅行の帰りに帰る方向が同じなので一緒になり、仲良くなりましたが、もともとが一匹狼的で尖っていて、その初めて一緒に帰った時も「今やったらお前でも勝てるで〜」と私に言ったぐらいにどちらが強いかが彼のステータスだった様ですが、そのあとどんどん仲良くなり、中学3年では同じクラスとなり、喧嘩が強く(極真空手をやっていた)私は尖っている方では無く誰でも何にでも誘うので、彼も柔らかくなり、何かと一緒に遊びました。

 

彼(島津君/仮名)がバイク好きで、モトクロッサー(飛んだり跳ねたりするダートを走るバイク)を持っていたこともあり、学年中で流行り、皆モトクロッサーをなんとか都合しあって近くの河川敷まで押して行き(半分以上は乗っていた)河川敷にダートコースとジャンプ台を作って走っていました。

f:id:tomtaro66:20200908174138j:image

画像はイメージです。

 

毎週の土曜の放課後は自然と集まり、それぞれが、興味ある友達を連れて来るので総勢20人くらいが入れ替わり立ち代わりやって来ては、レースとなり、骨折するものあり、バイクごと川に落ちるものありで楽しみました。

しかし、そこは中学生の経済力では長続きはせず1年半くらいで、プロチームに入る者、バイクを盗まれて辞める者、と徐々に人は少なくなりこの習慣は無くなっていきました。

私は、モトクロッサーを手に入れるのに中学生ですから知り合いの仕出し屋やゴルフ場の伐採用のガソリン運び(ガソリンが入った一斗缶を担いで山を登る)などをして、旧型で同級生のお下がりを売ってもらい乗っていましたが、アパートの裏に鍵をして置いていましたが、盗まれて辞める事になりました。

人より視野が狭くて動体視力が悪いことなどは気にならず(他の人の見え方が分からない事もあるのですが)ガンガン走りジャンプするので、皆からは、怖いもの知らずと関心を引きました。

しかし、親からの後ろ盾のない者は資金的に辛く、バイクを盗まれると、もう一度1からバイトしてやり直す気力がありませんでした。

防具(モトクロスの)も無くブーツも無く、ヘルメットとグローブは、島津君のお下がりでしたので、昔から周りの友達に支えられてきたことが未だに感謝です。

 

話は変わりますが...

 

先輩から譲り受けた自転車が盗難車で、捕まった事もありましたが、お巡りさんに自転車をどうして手に入れたか聞かれて、お世話になった先輩に迷惑を掛けられない一心で、「捨てられていた」と言い張って家庭裁判所に行った事もありました。

 

先程のモトクロッサー(ライトもウインカーも付いていないレース仕様)で河川敷に押して行くのが嫌になり、誘った友達と2人乗りで河川敷まで運転していると、サイレンを鳴らしながらパトカーが...御用となり無免許運転家庭裁判所へ...

 

その他、学校の校風だったのですが、皆グループ(ヤンキー、サーファー、バイクなど)がありましたが、ヤンキーチームが近くの学校のヤンキーと揉めて、リンチにあったのがきっかけで、その学校に総勢30人(こんな時はグループ関係なく協力体制)くらいで押しかけて、やっつける計画で出発して現地集合だったのですが、情報が漏れていたのか?相手の学校に行くと...パトカーが全ての入り口に待機しており、追いかけられたのですが、島津君と私は「もしもの時は、学ランの下にランニングウェアーを着ていて、学ランを脱いで逃走するで!」と作戦を練り参加したのですが、その場は見事に逃走成功!しかし、翌日の朝に見事に名前バレしており。

後日、先生同行の元、警察に出頭!凶器準備集合罪(そんな罪も知らなかった)で家庭裁判所へ...勿論、母が保護者で同行(汗)。

 

母にはかなり心配をかけました。

でも、中学3年になって、先程の島津君も同じクラスとなり何より人生の恩師とも言うべき先生に出会いました。

 

そのへんはまた...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

経過...祈る気持ち

 

母の容態が医者からすると「落ち着いて居る」のかもしれませんが、微熱と平熱を1週間サイクルで繰り返す毎日です。

f:id:tomtaro66:20200825174638p:image

母が手術の際に医療ミスで意識を無くしてからもう、3ヶ月が過ぎようとしています。

 

仕事の都合(出張)で3〜5日空く事以外は、ほぼ毎日、面会に行きツボの刺激やマッサージをしています。

 

最初は、ツボの痛みで、顔を歪めたりといったところから、目もちょくちょく開ける様になりましたし、ツボの刺激で、手足を少し引っ張る様になりました。

 

今日は、孫達の動画を流して居ると、少しずつですが、顔をむかてうっすらと目を開けて見ている様でした。(これが一番効果があるような...)。

 

しかし、今はコロナの影響で子供は面会に行けないので、動画しか持ち込めません。

 

でも、他の患者さん達は基本「面会禁止」なので、あまり贅沢は言えません。

 

病院も治療らしいことも、手が尽きたのか?お金の問題か?分かりませんが、通常病院レベルのリハビリと投薬しか無いようで、私達が行ってしている事の方が治療らしい様な状態です。

 

ですから、病院も引目をなどを感じているのか、面会「特別許可証」なるものを発給してこられました。

 

もっかの悩みは、将来の事とそれにかかわる病院側の保証内容と金額です。

 

聴いた話しでは、リハビリ専門病院では、もっと高度な治療の様で、事故を起こした病院にこのまま預けていていいのか?

 

本当に誠意ある治療方針を考えているのか?

 

まだまだ、母の容態以外にも悩みは尽きません。

 

仕事、家庭、介護、と将来が不安で凄まじいまでのストレスを感じています。

 

しかし、頑張るしか無い!

出来る事からやって行きます。

兵庫と大阪の中学生

話は前後いたしましたが、中学生時代の事を書きたいと思います。

 

今の中学生は、時代なのか非常に大人しくて疑問に思います。

 

私達の時代は力が有り余って居て、ジッとしている事が無いくらいに走り周り、悪さをしたものです。

 

息子が、今中学2年生ですが、帰って来ると部屋に引きこもり、友達とオンラインゲーム三昧なのです。

f:id:tomtaro66:20200822180503p:image

前回に明石市の頃の小学生時代を書きましたが、明石市で中学生となり小学生以上に機動力があり家で抑圧された分、外に出ると自由奔放になっていました。

 

明石市の中学校は超のつくマンモス校で入り切らない生徒を収める為に校庭にプレハブが幾つも立ち並び、クラスは15ほどあったかと思います。

 

校則は厳しくて前髪眉毛の上、詰襟のカラーは絶対に着用、女子はスカート丈膝下5センチなどとなって居て、帰りも寄り道禁止、買い食い禁止などなどだったと思います。

 

それでも、どこにでも居るもので、丈の長い学ランに図太いスラックスの不良と言われる子供です。

当時は金八先生の全盛期でしたので、ドラマそのままでした。

明石市では、ごく一部の数人が怒涛を組んでたむろしてタバコを吸ったり、授業の出ずに溜まったりしており、何か特別な人たちの様に思っていました。

 

兵庫の中学校は4月〜7月の一学期間しかいませんでしたが、家での抑圧の反発か中庭の池でルアーで魚を引っ掛けて遊んで職員室に呼び出しと、学校を抜け出して駄菓子屋に行ったことがバレて呼び出しの2回ほどこっぴどく叱られただけでした。

 

その後、大阪に夜逃げ同然で引っ越して夏休みを過ごした後に、大阪府豊中市の中学校へ転校したのです。

 

まずカルチャーショックを受けたのは、上履きが無く土足のまま教室へ入る事、そしてクーラーが効いている事でした。

もちろん伊丹空港が近いので、当時は夜まで飛行機が離発着していたせいですが...そして校風も自由で、普通の生徒も騒がしく自由奔放な感じで、シャツも様々な感じ!?

 

明石の不良の様な滑稽な(ダサい)感じは無く生徒の8割くらいが派手と言うか格好も自由でした。

 

そんな中で、私は一様に学校指定の開襟シャツに学生ズボンで登校していると、ついたあだ名が、明石原人!と芋でした。

 

クラスの中でも色んなグループになっており、格好はきちんとしているガリ勉グループに目をつけられてイジメを受けました。

 

教科書に落書きされたり、文房具を捨てられたりと色々されましたが、耐えに耐えた後に負けん気の強かった私は、足を引っ掛けられて激怒してそのグループのリーダー的な者を相手に大暴れしてしまいました。

 

その間にもイジメられっ子扱いせずに声を掛けてくれ、一緒に登下校をする様になった友達も居ました。(今も親友ですが)

 

大暴れした事と第一の友達が出来たことで、3学期からは、イジメられっ子では無くなりましたが、その親友の誘いに乗って知らない友達の家に遊びに行った事でその後の中学生生活が一変しました。

 

その初めてお邪魔した子の家に行ってみると、5〜6人は居たと思いますが、クーラーの効いた部屋で溜まり、雑談していました。

皆、格好も派手な感じで、話は面白く小学校時代の事やバイクや誰それが喧嘩して勝っただの負けただのと話は尽きません。

もちろん私は仲間に入れず、誘ってもらった友人の友人扱い(ゲスト扱い)の様な感じでした。

 

すると、誰かが訪ねて来ました。しかし、集まった5〜6人が嫌う人物だったらしく、外に声が漏れない様に電気を消して居留守をしたのです。

でも、そこは中学1年生です。

クスクスと笑う声や身動ぎするなどして、ジッとしていられません。

なんとか嫌われ者の坂本くん(仮名)が諦めて帰った後に、お邪魔した家の2つ上級生のお姉さんが彼氏のバイクで帰宅したのをきっかけに、バイクを触らせてもらい盛り上がったところでお開きになったのですが、私を誘った友達は用事で先に帰り、同じ方向の右近くん(仮名)が一緒に帰ってくれる事になりました。

 

すると、帰りぎわに小学校の前に先ほど皆で居留守で避けた坂本くんが他の一人を捕まえて待ち構え、小学校のトイレに来い!!

と激怒している様子でトイレにいざなわれ、「何さけとんねん!!」と右近くんが殴られて、口が血で真っ赤になりました。

私は初めて会った人ばかりで、何が何やら分からぬまま、「おまえもか-」と鼻に一発くらい鼻血が滝の様になりました。

攻撃は、とりあえずそこまででホッとしましたが、翌日に学校に行ってみると、昨日に捕まって殴られたのが、私達だけの様で、色々と聞いてみると、坂本くんは自称番長を目指していていきりたっているが、あまり相手にされていない人だったらしくその後もあまり華々しい話は一度も聞いたことのない人物でした。

 

しかしながら、転校して間もなくでこの出来事で校内で有名になり、その後に影響して行くのです。

 

この辺でまた...

 

 

丁稚奉公の悪坊主

前回に私の小学生の頃をお話ししました。

もう少し書きますと...

家族3人の中で、私が幼かったせいもあり叔父が連れて行ける所は一緒に連れて行く事も多かった様です。

 

父の実家はそのうちの一つで、兵庫県神崎郡で幹線道路から更に山奥の山村でその先は行き止まりでした。

お店は一軒も無く、田舎の大きな家に鉄板の“たばこ”と書かれた看板があるだけで、引き戸を開けて「わかばくださーい」と大きな声で言うと「はいはい」とおばあちゃんが持って出て来るといった具合で店では無いのです。

 

何の用事かは知りませんでしたが、月に一回は帰省していましたから、夏休みとなると田舎に預けられて何週間も居ました。

 

する事が無いので納屋を漁ったり、川で釣りをしたり山に小さな池があり、そこに腹の真っ赤なイモリが大量に居ました。

それは、そこ以外では見た事のない生き物で、バケツを持って行き大量に捕まえて持って帰ると、お爺さんが真っ赤になって怒り、納屋の入り口に大きな板をめくると初めて地下がある事を知りましたが、そこに放り込まれて半日閉じ込められました。

 

聞いた話では防空壕だった様ですが、そんな田舎に爆撃があるはずもなく、一度も使う事なく漬物などを保管することになっていた様です。

お婆さんがお爺さんを説得してそこから助けてくれましたが、お爺さんは蛇や爬虫類が大嫌いだった様です。

そうとは知らず珍しいものには好奇心旺盛だった私はバケツに漁れるだけとって持ち帰ったのです。

他にも石垣に良く蛇が居て尻尾だけが出ていたのを引っ張り出して、頭がこちらを向かない様にクルクルと回してながら持って帰った時もお爺さんに激怒されたのを覚えています。

 

どうもこの頃は、怖い叔父の目の届かないところでは自由奔放が顔を出して大人から見ると悪ガキだったのでしょう。

 

しかし、子供の頃から仕事を手伝っていたせいか?何をしても精一杯に嫌がる事が無かったので、社会人になってからも上司や先輩に可愛いがっていただきましたし、小さい頃からトイレ掃除などをしていたので、自信もありどこでも褒めて頂きました。

 

育ちが育ちですので、好き嫌いも無く?(怒られるのでなんでも食べていたけどラッキョウと小魚は大の苦手)畑から採って食べたり、なっている柿やザクロなど勝手に食べてました。

 

明石市の店に帰ると、朝から従業員さん達のアイスコーヒーを入れて店前の掃除と水撒きをした後に仕事の手伝いが始まります。

 

昼過ぎに手伝いが終わってから遊びです。

遊びは、明石市も結構な田舎ですから池で釣りをしたり山で穴を掘って洞窟を作ったり、野犬を追い回したり、スズメバチの巣を退治したりと大忙しであまり勉強はしませんでした。

 

その分、周りの大人達にも可愛がってもらい、美味しいものをご馳走になったり、喫茶店でミックスジュースをご馳走になったりと私生活は大忙しで、小学校の成績表には、いつも「落ち着きが無く...ムードメーカーで...」と書かれていました。

 

小学生の地域のソフトボールチームにも入っていましたが、前回にも書いた様に目が悪いので、打てば三振、守ればエラーの運動音痴扱いでした。

 

今思えば、沢山の大人と過ごしたせいか、遊びも子供にしては発想が変わっていたのか友達も多く、勝手に大阪の交通博物館(弁天町、今はなくなったかも?)まで出てきて、時間の許す限り大阪環状線で何周も回ったり、パチンコを買ってコウモリを狩したりと友達を飽きさせなかった様です。

 

夏祭りになると、魚屋の同級生のところが店を出すので、手伝って客寄せした事もあります。

今の時代では考えられないですね。

 

叔父は、怖い人でしたがその厳しさ故に今の私が出来たように思います。

その叔父も私が中学1年の夏に事業が立ち行かなくなり、多額の借金を一手に引き受けて返済して、無理が祟ったのか、還暦を過ぎて直ぐに病気で亡くなったそうです。

私達、母と姉と私は逃げる様に大阪へ移り住みました。

 

叔父はこの借金返済等で実家にも迷惑をかけたのか、実家の墓にも入れられず、父方の一番下の叔母の働きで、どこかの寺に永代供養されているそうです。

沢山の方々の助けで今の私が成り立っている事を忘れずに、私が生きているうちに丸く収めないといけない大きな一つです。

 

生きるとは、大変な事ですね..

 

また...

 

 

ドメスティックバイオレンス

8月になって猛烈な暑さです。

今年も長雨→猛暑→集中豪雨と台風になりそうですね💦

野菜は高騰し、コロナはおさまらず、国際情勢は不安だらけで、子供達の未来はどうなって行くのでしょう。

 

私達が子供の頃に不安が無かったわけではないですが、ここまで来ると世の中も生活もこのままで良いとは思えない毎日です。

 

前回に私の父が亡くなったところまで書きました。その結果、父が残したわずかな遺産を頼りに叔父(父の弟)に出資してクリーニング店を開業する事になり、私達は兵庫県神崎郡から兵庫県明石市へ居を移す事になりました。

 

叔父は、30歳過ぎで父の後を追って(父は稼業を継ぐのが嫌で実家を飛び出していました。)実家を飛び出して江戸前の着物染色の会社に勤めておりました。

 

その叔父が仕事を辞めて着物染色が出来るクリーニング業を興す事になり、母はなけなしの遺産を全て投資して自らもその店を手伝う事になったのです。

 

それが地獄の始まりとも知らずに...

 

叔父は、店舗が10軒L字に並ぶ商店街?の2階、1階が店舗でした。

私達3人は別のアパートに住んでいましたが、叔父が独身な事もあり、食事は一緒に従業員さん2人と皆んなで食べるのです。

 

そして、恐怖の生活は先ほどの店舗を準備するための仮住まいのアパートを借りスタートしました。

それは、叔父が度々苛立ち鬼の形相で暴力を振るうのです!

 

ある時は、何を怒っているのかも分からないのですが、トイレから出ようとしていた私がドアの縁を掴んでいるところにトイレのドアを強く閉められて、指を挟まれました。

当時、5歳でしたので小さな指の背の身がめくれ小指は骨らしき物が見えていました。

 

大量の血を洗い、病院には行かず、薬局の薬で直しました。(いまだに後が残っています)

 

それも始まりで、店舗の2階(明石市)に引っ越しした初日の朝に朝食のパンクズをこぼして、怒鳴られて夕ご飯抜きだったり、成績が悪い!と叱られて、1日中正座させられる事もありました。

 

叔父は機嫌が悪いと歯を食いしばる様で、それがあると目を血走らせて怒鳴り、殴られる事はしょっちゅうで、ダラダラご飯を食べるのも嫌い、好物の炊き込みご飯を腹一杯食べて寝ていると、寝ている腹を踏みつけられて、全て吐いてしまいました。それ以来、炊き込みご飯が嫌いになりました。

 

正月の朝に雑煮が熱すぎる!と母に投げつけた事もありました。

暴力はしょっちゅうで、母が目を碧くしている事もしばしばで、気に入らない事があると何かおきます。

三宮に年末の買い物に行った時です。大人は何か品定めをしている時に、営業マンが私に住所を記入すると何かをプレゼントします。と声を掛けてきて、葉書か何かに住所を記入すると、叔父が飛んできて首根っこを掴まれて、首の肉が爪でえぐれた事がありました。

 

他にも、小学校2年生の時には、罰として姉と2人(姉は2歳上)で明石市から神崎郡まで歩いて行かされたり。(加古川で警察に保護された)

 

真冬に裸にされて、外に放り出されたり(母が助けようとして殴られる)結果、近くの販売機の裏(暖かい)で蹲っていると近くの消防署の人に助けられたり。

と無茶苦茶でした。

 

自然と目の届かない学校に行くのが楽しみで家に帰るのが憂鬱でしたから、学校は休む事なく通い、帰りは遠回りしてなるべく遅く(怒られない程度に)帰る毎日でした。

 

いい事もありました。

叔父は、「働かざる者食うべからず」が口癖で、私は幼稚園児の時は、トイレ掃除、風呂掃除、掃除が手伝い(ほとんど仕事)が日課でした。それも、ピカピカでないとやり直しになるので、必死でした。

 

小学生になって、クリーニング店の手伝いで、タオル畳み、水撒き、掃除ろなりえ、小学校2年生の夏休みからは、カッターシャツ(ワイシャツ)のアイロンプレスと袋詰め、ズボンのポケット掃除、叔父の外回りの同行(話相手)、各お付き合いの同行(美味しいものが食べられる)となり、働く事の苦は無く(友達と約束がある時以外ですが)育ちました。

 

しかし、怒られる恐怖なのか大人の顔色ばかり見る傾向が強く、威圧感がある人は未だに苦手です。

 

それと、正義感が強いのか、ズルい酷い、弱い者イジメが大嫌いで、許さない傾向が強くなり子供の頃から人の好き嫌いがハッキリな性格に育ちました。

 

それと、家では抑圧された生活をしているせいか、学校では自由奔放な振る舞いが増えて喧嘩や悪戯は多かった様です。

 

その辺は、またの機会に....